コロナ「禍」という表現に違和感
今年5月前後から「コロナ禍」「新型コロナ禍」などという表現が、新聞や雑誌で使用される頻度が多くなってきたように思う。表現の自由はあるし、言葉は生き物なので、使用禁止や批判的なことを主張する行為は控えるべきだとは思うが、わたしはどうしても使用したくないので、そのわけを書かせてもらいたいので、お付き合いいただきたい。
何度も申し上げているように、2月11日「2019年コロナウイルス疾患」の英文頭文字からCOVID-19と表記し、使用することをWHOが決定した。それ以降、この決定を尊重して各国政府やマスコミは、この表現に統一し、母国語の表現としてアルファベットを使用しない国でも、両方の表現を併記するなどの使用法に変更された。例えば、中華文化圏では『環状病毒病COVID-19』などと使用されるようになった。
そんなことはおかまいなくというのか、言葉の意味を十分に吟味せず日本では「新型コロナウイルス感染症」という用語が、法律用語として使用されるようになってしまった。日本の国立感染症研究所のホームページには、これまでヒトに感染するコロナウイルスは6種類あり、SARSが5番目、MARSが6番目であることが、丁寧に説明されている。つまり現在、コロナウイルスの7番目にあたるCOVID-19は、今後も地上のどこかで変異を繰り返し生き続けることは科学的に確実視されているし、8番目以降のコロナウイルスが他の動物からヒトに感染する可能性も高いと指摘する科学者もいる。だから「新型」という表現がいつまでも通用するとも思えないし、感染症名として世界では通用しないことは確実だ。
広範囲な予期していなかった災難や不幸全般の「わざわい」を意味する「禍」という字だが、戦禍、災禍あるいはコレラ禍などと使用される頻度が高かった。戦前アメリカ東海岸で黄色人種を排斥するために多用された「黄禍」などという忌々しい使用法もあり、それがアメリカ批判の材料としてマスコミが「日米開戦やむなし」という雰囲気を醸成するのに多用されたので、わたしは禍という字に神経質になっているのだと思う。
幕末の黒船来航時にコレラが持ち込まれ、江戸だけでも数十万人が感染した記録があり、原因不明なため多分妖怪の仕業だということで「虎狼狸」と表現されたそうだ。立川昭二先生の『明治医事往来』という本に「明治44年のコレラによる総死亡者数は37万、これは日清・日露の大戦争の死亡総数をはるかに上回る」とある。明治期の日本の平均人口は、現在の3分の1程度であるから、今なら37万人の3倍死亡者がでたことになる。この長期間に渡り、大量の死者がでた社会状況を「コレラ禍」と言い表したのだ。同じように多くの人々を塗炭の苦しみに陥れた第2次世界大戦の3百万以上の日本人死亡者が発生したことを「戦禍」と表現してきたのだ。
このような背景を知る物書きの端くれとして、わたしはどうしても、現状を「コロナ禍」と表現したくない。また、この表現が科学を軽視する爺さん臭いというか、歴史を顧みないオヤジ臭がする言葉に感じられるし、まだ始まったばかりのCOVID-19への人類の挑戦を、忌み嫌うという姿勢が逃げ腰なように思えてならない。
世界中の医療・介護従事者が切迫感を感じ第一線で懸命に業務に従事しているのに「ポストコロナ」などといういいかたも、ヤナ感じでしかない。
コロナの前にビフォーとかアフターとか、いやウィズだとか、コロナ後という表現もなぜかすっきりしない。それでも、訳も分からず使われるのであろうから、悲しい。
社会医療ニュースVol.46 No.539 2020年6月15日