百年前の9月1日午前11時58分、関東地方南部をマグニチュード7.9の大地震が襲いました。死者約9万9千名、行方不明者約4万3千名、全壊家屋は約12万8千戸、焼失家屋は約44万7千戸にのぼったと報告されています。

関東大震災の被害は、広範囲で静岡県にまでおよびました。江戸時代からの都市づくりは江戸末期には世界最大の大都市になったものの、明治以降のさらなる人口の急激な増加は都市防災、都市計画を含む都市インフラ整備の限界点に達していたのかもしれません。

この年の1月、ドイツ西北部のライン河畔、大炭鉱地帯であるルール地方をフランスとベルギーが第1次大戦のドイツの賠償金不払いを理由に出兵して占領しました。中華民国では孫文が大元帥に就任します。スペインでは9月に独裁政権が誕生しますが、これは前年にイタリアのムソリーニがファシスト党内閣を成立した影響です。戦勝国から多額の賠償金を突き付けられていたドイツでは、11月にナチ党のミュンヘン一揆がおきていますので、世界は全体主義の方向に大きく舵を切り始めます。

翌24年はソビエトのレーニンが死去しスターリンが権力を掌握します。アメリカは排日移民法を実施します。そして中国は第1次国共合作をしますが内戦は収まりません。1914年から第1次世界大戦が4年以上続き、戦争が終わる直前からスペイン風邪が世界で大流行し、そして社会主義と独裁主義の時代に突き進むことになったのです。

百年前と現在では、世界はまるで違うのか、すこしは進歩したのか、根本的な政治的問題はなにも解決できていないのか、正直よくわかりません。しかし、百年前の世界の状況と似たような状況にあるのかもしれませんし、そうではないのかもしれません。

世界が分断され国同士が歩み寄ろうとしない状況が続けば、第3次世界大戦などという過ちの火種になる恐れがあります。今こそ、人類の平和に対する叡智を結集することが必要なのです。いくら防衛力を強化しても際限がなくなります。もう一度、これまでの百年の歴史から真摯に学ぶことが必要だと思います。 

話は変わりますが、9月1日を祖父母は「二百十日」と呼んでいました。昼食は、小麦粉を練った塊をしょう油だけで味付けした鍋にちぎって放り込む「スイトン」という食べ物でした。毎年「マズイ」と思いましたが、18歳まで家族そろって震災を忘れないために食べました。

東京都文京区本郷2丁目に私が幼稚園の時、お世話になった「日本基督教団弓町本郷教会」があります。その斜め向かい側に樹齢約7百年の「文京のオオクスノキ」があります。今は「クリマ ディ トスカーナ」という高級イタリア料理店がありますが、江戸期は甲斐庄喜右衛門という旗本の屋敷で、明治になって楠と改名したと伝わっています。関東大震災当時は、お屋敷の中ではなく道端に大木があったそうですが、震災後美しい洋館が建ち、戦後はどこかの国の大使館があったりしました。その後、楠亭という西洋料亭になりましたが、今はビルとなっています。

この大きな楠に2歳の父が祖父に縄で縛られたという家伝があります。生前祖父は「楠の大木なら倒れないし、何しろ家じゅう足の踏み場もなく、余震が起こると思ったし、どこぞで火の手も上がったので、息子だけでも助かればよいと思って木に括り付けた」と何度も話してくれました。ただ父は、この話になるといつも黙り込んでいました。多分なんとひどいことを父親にされたもんだという気持ちだった、のかもしれません。

例年、立春から数えて210日目が9月1日で、この日は台風や風の強い日が多く、天候の急変に備える雑節のひとつだそうです。還暦過ぎて知ったのですが、1923年当時の二百十日は9月2日だったので、わが家の「二百十日スイトン食」は間違っていたことになります。しかし、わが家で50年以上続いたスイトン文化は、今でもDNAに刻み込まれているのを感じます。

特に、地震・津波・台風・火山噴火・がけ崩れ・洪水などの災害が報道されると、反射的にスイトンを思い出してしまいます。災害時はみんなで助け合わなければなりません。特に発生時は、命を守らなければなりません。助けられる人は助けなければならないのです。何しろ、共に助け合うわけですから、まさに「共助」ですよね。

災害に備えることは大事ですが、災害時の共助はとても大切だということを、私は知っています。ただ加齢したせいで、助けられる側に分類されるかもしれないと思うことがあります。体力は低下しても知恵や経験はあるので、今でも僅かばかり献金をしつつ、スイトンを懐かしんでいます。忘れてはならないことを、言い伝えることが大事です。

社会医療研究所 所長

小山秀夫