2020年08月05日「世界は怖いことで満ち溢れている」

 7月7日に岩手県看護協会で看護管理のセカンドレベルという授業を盛岡まで行って6時間してきました。とても久しぶりで、良い気分で久方ぶりの東北新幹線です。岩手県といえば感染者ゼロの唯一の県です。たぶん参加者は盛岡県内の看護師さんばかりだから感染対策を徹底すれば開催できるという判断だったのでしょう。こちらとしても万が一感染源になると取り返しがつかないので、ずーと在宅勤務を続けたうえで、東京駅までタクシーそして東北新幹線、車内は1両に10人くらい、検温、手指消毒して何とか朝から夕方まで講義してきました。

 参加者は「県内1号患者には絶対ならない」「東京から来た人は怖い」「なんでもアルコール消毒」「会食、宴会などもってのほか」でした。なんか感染すれば犯罪者、感染者がでれば村八分みたいな感じになって、恐怖が生み出す自警団意識と相互監視体制化というすごい社会で、ウイルス講師が話すわけです。いつもなら誰も盛岡のこと気にしていないけど、ホストクラブはありません。オカマバーもありません。フィリピンバー、ロシアクラブなんてなにものだということです。これは、あくまでも岩手県の真面目な医師や看護師さんたちに聞いた範囲ですので、1か所ぐらい闇営業しているかもしれませんが、その筋の人は真顔で「オカマは県外行くのよ‼」だそうです。おまけにヤクザというのもいないみたいな清潔な街で空気もきれいです。この雰囲気でこの時期、なんかやらかしたら「袋叩き」になりそうです。この話、都内で少しだけ話すと「へー盛岡そうだったんだー」とウケます。「ゼロの秘密は夜にあり」なんて題の絶対売れないサスペンス書けそうですね。

 厚労省の統計みれば、重症の入院患者ゼロの県が34県ありますね。大騒ぎは大都市というか、4都道府と茨城、群馬、埼玉、千葉、神奈川、石川、滋賀、和歌山、福岡の各県だけです。逆に東北、四国、北陸、鳥取県、島根県などは重症もいなければ入院患者も大都会に行ってもらってきた「持ち込み感染者」しかいないわけですよ。ちゃんと確認したい人は、厚労省の「新型コロナウイルス感染症患者の療養状況、病床数等に関する調査結果(7月22日0時時点)」をみてください。これが日本の国内の現状です。はっきりいって、大都市がウイルスの巣で、都会に遊びに行くと感染、大都会の人を呼び込むと感染という構図で理解されているわけですから、東京は「怖いお化け屋敷」、大都会はどこでも「妖怪見世物小屋」ばかりというワイドショー的世界が恐怖として拡散されるわけです。

 こうなると大都市と交わるな。「怖い、汚い、感染する」の新3K。かくして大都会へのあこがれは消え、地産地消、専門学校も大学も、おまけに就職も県内という「やっぱり地元が一番」主義が横行することになる。ただ、大都市を主な客としてきた観光業界も地元の高級食材も全滅で、江戸時代ではあるまいし、約300藩が自給自足できる経済システムになっていないわけだ。こういった意味で「東京一極集中」から「地方分権型社会」が形成されるほど、世の中は単純ではなさそうだし、大都市の否定の上に地方が輝くという二律背反的関係でもなく、共倒れしないように支え合わないとどうにもならなくなるはずだ。必要なことは対立ではなく連帯であるので、考えることをやめてはだめだ。

 これって国際関係も同じでしょ!アメリカもこの1週間1日6万人平均で、7万人以上という新規感染患者を登録する日もある。ブラジルが5万、インドが4万という毎日の新規患者数です。もー、ブロードウエイもメトロポリタン劇場も閉鎖状態、ベースボールも無観客、来年のリオのカーニバルが早々中止、ムンバイまでの新幹線はどうなるんだろう?なんか世界の行たいところは全部閉ざされているというか、突然、だれも歩いていない大都市が頭の中で広がって、バーチャルな人がいない真っ白な世界が延々とつづく夢をみつづけているようだ。幸い日本は、累積患者数が約3万人、累積感染死亡者が1千人ということは、これらの国の1日分以下に過ぎないので、大したことないのかもしれないという妙な感覚に引きずり込まれそうになる。これはこれで本当に怖いことである。

 なんか、政府は必死に東南アジアとのヒトの移動とか日本の在留許可書を持つ人々の往来とかを再開したいみたいだが、エァーラインの旅客機は駐機場の展示物とかしているので飛んでこれるのはプライベートジェットしかないみたいなことになっている。飛行機がオゾン層をどのくらい破壊しているのか正確に理解しているわけではないが、地球環境は改善したことは確かだそうで、グレタ・トゥーベンさんに怒られなくてすみそうな大人が胸をなぜおろしているのが滑稽といえば滑稽だ。

 草の根封建主義的感情社会が支配する日本では、異国の人は、みんな3Kという感覚が先行するので、当面鎖国状態、一層、東京都だけ「出島」化にして、東京在住者は東京都以外に行けなくする。外国人は東京にはこれる。けれども東京ディズニーランドは千葉県だから行けないことにするということを言い出す人もいるかもしれない。まさかこれが“New Normal”ということにはなりそうもないが、「インバウンド観光立国をもう一度目指す」なんてことは、ありえないことだと多くの日本人は考えているだろうし、日本の物づくりが世界を席巻するということは、もはやなさそうだという予感だけは感じている。怖がり日本の選択は「鎖国だ」なんてことになる可能性は、リアルではないが、最近の専門家といわれる人々の口癖風にいえば「可能性はあります」という意味のない空想というかドグマ、あるいは日本独自の「空気」があるように思えてならない。

 可能性は何でもあるだろうし、空気ばかり読んでいても、悪い空気で胸いっぱいにすれば、いつか息もできなくなるだろう。これと同じように審美眼を養わないでいると、美しいものをみても何ら感動しなくなる可能性の方がはるかに大きくなるのではないかと思い悩んでしまうような肌感覚がある。

 他者がいなければ生きていけないというリアルと、自分だけよければよいという傲慢、自ら調べたり勉強したり考えたりという行動をとらず、誰が書いたかわからない落書きの山をネットで検索し、なんとなーくわかったつもりになるといういうのは、すでに病に過ぎないというか、デジタル社会の恐怖としかいえない。全く卑怯者が匿名でネットに書き込み、それを苦にして「死」を選択してしまう人がいるということが、想像できないというか、面白おかしければ、誰が「死」んでも関係ないというのは、現代のネットによる「殺人集団のリンチ」にほかならない。

 COVID‐19パンデミックは『世界は怖いことで満ち溢れている』ということを世界に伝えているのだ。正体不明のウイルスは恐怖でしかないが、それ以上に世界中に怖い人たちがたくさんいるということを証明している真っ只中を生きているような気分になる。妖怪がでてきて「殺されたくなければカネをだせ」という、それが山賊でも、ギャングでも、軍人でも、どこかの国の独裁者でも同じことだが、結果は、カネもとられ殺される、カネは取られなかったが殺される、カネだけ取られただけで済んだ、両方とも無事だった、という4択でしかない。どちらか一つだけなら「命」だと考えるのが、当然視する日本人が多いかもしれない。しかし、世界は様々で、カネが全てとか、カネも命も価値は同じ、相手を殺すまで徹底的に戦うべきだ、というのが常識ということもあることを理解しておかないと世界を見失うことになる。何を取られようが、命だけあればよいという人だけの集団も、何でもかんでもカネ次第というのも怖いが、「カネがあってもなくても命はない」ということになるのが本当の怖さなのではないかと思う。

 恐怖が恐怖を呼ぶ。恐怖を自らへのわざわいとして神仏にすがる。恐怖がやがて差別に変容する。差別が対立を生み、対立が人殺しゲームに手を染めることになる。憎しみが憎しみを生み、憎悪が恨みとなりやがて分断となり、本当に必要な平和と連帯を失う。そうなってはじめて失ったものの偉大さを顧みることができるようになる。これが人の性だとすれば、人自体が恐竜より怖い存在ということになってしまう。こんなこと歴史すごろくかジュマンジの中でしか起きないことだといえる世界にしないといけないのだ。

*“Jumanji”は1982年、Chis Van Allsburgの絵本で、その後映画化された。