撤退の決断
戦いの歴史を書いた「戦記」というジャンルの書籍は膨大にある。世界中の戦記関連書籍の発行部数では「三国志」か「ナポレオン戦記」ものが多数であると思います。英雄列伝は興味深いのですが「撤退戦」に関する書物は、貴重な教訓を歴史に刻んでいると思うのです。
アフガニスタン撤退戦、ベトナムからのアメリカ軍の撤退戦は、記憶に新しいのですが、史上最大の撤退戦といえば第2次世界大戦の西部戦線における戦闘の一つで、ドイツ軍のフランス侵攻により1940年5月24日から6月4日の間に起こった「ダンケルク」での戦闘でしょう。追い詰められた英仏軍は、この戦闘でドイツ軍の攻勢を防ぎながら輸送船の他に小型艇、駆逐艦、民間船などすべてを動員して、イギリス本国に向けて40万人の将兵を脱出させる作戦(ダイナモ作戦)を実行したのです。
半藤一利さんと江坂彰さんの「撤退戦の研究―日本人は、なぜ同じ失敗を繰り返すのか」光文社、2000年は、太平洋戦争の失敗本質は、現代まで続いている日本人の弱点であり、日本人は撤退戦が上手にできない民族だということを「成功の復讐」「精神主義の呪縛」「戦略なき膨張」あるいは「負けてるとわかってなぜ戦うのか―魔性の歴史」などで述べています。半藤さんは「太平洋戦争の日本軍のリーダーを見れば、良くこれだけ無能なリーダーで戦争したと思うほど無能なリーダーばかりです」(96頁)と断言しています。
本当にそうだったのかどうかは、よくわかりません。半藤さんは、多分「作戦準備とか勝ち戦の間は大丈夫だが、負け始めると何も決断できないリーダーが多かった」といいたかったんだろうと思います。ただ、撤退戦で決断できないのが日本人の特性だといわれると、何とか反論したくなりますが、反論の根拠は僅かです。
戦後の日本が「奇跡の復興」を果たし、高度経済成長の大波にうまく乗れたものの、その後の産業転換とか大企業の多角化経営やダウンサイジングに失敗し、国際競争力を毎年のように低下させているかもしれないのです。決断力の低下が大企業だけならいいのですが、中小企業も官僚組織も政治の世界でも、その上個人事業主でも低下してるとなると、日本全敗の精神構造が形成されているのではないかと心配になります。
◎撤退の決断を誤るな
診療所とか病院の経営問題にかかわっていると「撤退の決断」が一番大切だと思い知らされます。なんでもそうなのかもしれませんが「やめなければならない状況に陥っているのにやめない」のは、問題を雪だるま式に大きくしてしまう恐れがあります。世の中には、スローイン・ファーストアウトという言葉がありますよね。何もカーブでのドライビングテクニックのことだけではなく、アウトは早くということで、やめるための作業を一気呵成にすることが必要だということです。
いうだけなら簡単ですが、これがなかなかできないのが人間です。人がいつ死を迎えるかを正確に判断できないように、どの時点が「辞め時」なのかという判断は難しいです。感情的には未練もありますし、損したくないという思いもあります。全てから解放される喜びより、将来の不安の方が大きくなることも多いでしょう。それでも「続けられるまで続ける」ことで、周囲に迷惑がかからないのであれば続けても良いでしょう。
ただ、事業を行っているのであれば、いつかは自ら撤退を決断しなければなりません。撤退の決断を誤ると晩節を汚す恐れもあります。実際に医療事業を継続中に急逝した医師の家族が、てんてこまい状態になり、よかざる人間関係に引き込まれてしまうという結果になることさえあります。
撤退の意思決定は明確に迅速にお願いします。撤退の時期を誤ると悪いことばかりが連続的に起こることは企業倒産の顛末が多くを物語っていると思います。
◎やめる辞めるといわない
では、なんでも速めに撤退すればよいのかということでは、順風満帆な経営状態で体力も気力も十分ならやめる必要はありませんが、今のような右肩下がり経済では多くの場合撤退は「イエス」のことが多いです。医療経営能力のある医療組織は少なくありませんし、倒産一歩手前の病院が別法人によって再生する事例はいくらでもあります。
苦労して医療機関を経営しても、大きな成長はできない。自分の身の丈に合ったところまで成長したら、あとは衰退が待っているのです。永遠にイケイケどんどんと続くわけではありません。創業100年以上の医療機関はいくつかありますが、3代、4代の代替わりを成功に導くのは決して容易ではないのです。医療機関の事業継承は、それ自体、大作業が伴うことを理解できない医療経営者は、事業継続能力に問題があるのでしょう。
最近「やめようか」「やめたい」と話す医療経営者が増加しているように思えてなりません。「まず、ご自分で決断してください」とアドバイスしていますが、結局「やめることを決断できずにブツブツいってる」だけにすぎません。
サラリーマンではなく自らが事業主の場合、何しろ「決断」が迫られる場面が多いです。サラリーマンでさえ辞表を出すかどうかの決断は、大きなイベントです。まして事業のクロージングに関しては、共に働いてきた職員や地域のステークホールダーの生活問題が発生しますので、一度「やめる」と発言したらで直ちに決断して撤退することがベターです。
最近の医療機関の経営状況を観ると、どう考えても順調なのは3分の1程度で、3分の1はサバイバル状態、残りはどうにか経営継続しているという状況ではないでしょうか。「やめたい」といいたい人は沢山いるはずですが、そういわずに是非、有利な辞め方を検討する時期だと思います。
医師は年齢に関係なく体力さえあれば高齢になっても働く場所は比較的多いと思います。医療経営で苦労し続けても、診療医としての人生を全うできれば良いはずです。仮に生涯不安のない資産が形成されているであれば、家庭生活や文化生活を楽しめれば幸福なのではないでしょうか。
社会医療ニュースVol.49 No.572 2023年3月15日