情報に対して即応するのではなく時間を掛けてデータを蓄積しよう

デルタ株の正体が徐々にわかってきたことで、今年中にはパンデミックが収束しそうだという希望的観測は打ち砕かれたのです。デルタ株にワクチンが有効でない場合があるのか、3度目のワクチンを打てばよいのかという科学的根拠が確定していません。こうなると中和抗体を含めた治療薬への期待が高まりますが、結果的に世界中がパンデミック消耗戦に引きずりこまれたことになり、ワクチン接種証明で人の行動制限が解除されるであろうという説もなんだか説得力がありません。

インターネットのおかげで世界中の情報にアクセスできるようになりましたが、データを情報化し、真実かどうか確認し、物事の判断に利用しようとすればするほどインフォメーションとしての情報ではなく判断基準情報であるインテリジェンスとの深い溝に悩まされています。

このCOVID-19は、いずれ毒性を弱めて常在菌化するのかどうかよくわかりませんが、いつかパンデミックは収束することだけは確かでしょうから、気長に対処するしかありません。わが国は島国で、天然資源に恵まれていませんので、長期の消耗戦への対応が上手ではありません。「少数精鋭」「小よく大を制す」などと言うことに、万雷の賞賛が与えられる珍しい精神構造がはぐくまれています。これはどうか意見が分かれると思いますが「過去を忘れやすく」「変わり身がはやい」という特徴があるのではないかと思います。

この国の文化や思想を批判する気持ちは一切ありませんが、忘れやすく、変わり身がはやいのは、良い結果を生む場合もありますが、失敗を繰り返す原因になることがあります。戦記や各種災害記を読んでいると「あれ!」と思う変わり身のはやさに驚くことがあります。ただ、20年ぐらいは記憶にとどまりますが、50年ぐらい過ぎると記憶は風化し、100年過ぎてしまいえば、もはやリスクとも認識されなくなってしまいます。

多分ほとんどの著作を拝見させていただいているだろう歴史家の磯田道史さんの「天災から日本史を読み直す」(中公新書2295,2014.)は、これでもかこれでもかと襲ってくる天災の恐ろしさを教えてくれます。この本の冒頭に「天災がおきると、人間の歴史の見方、いや世界の見方が確実に変わる」と書いてあります。そうなんだろうと思います。

ひどい目に合って歴史や世界の見方を上手に変えてくるしか、生き延びる方法がなかったのかもしれませんし、何しろ何度やられても再起するため見方を変えたので、決して忘れたわけではないのかもしれません。

◎忘れないように記録類を正確に蓄積し歴史に託す

戦争を体験したことも大災害に遭遇したことがないので、本や当時の記録物から教えを乞うのでしょう。今から76年前の夏、旧帝国陸海軍部は大量の書類を消去処分にしました。これは事実でしかありませんが、全ての文書が残されていたら証拠に基づく正確な評価が可能なのではないか、その評価が平和への確証となったのではないかと思ったことが何度もありました。「文書は残ってない」と国会で証言されても「繁文縟礼」は世界中の公務員の大原則なので、あとで記録がでてくるということが繰り返されことになるのだと思います。

今回のパンデミックで大量の公文書や記録が大量に記録されています。いつかですが、全てが公開される日がくるはずです。政府の公式見解で「総合的」「一体的」「機動的」対応などと言う言葉があるたびに、どのような意味なのか理解できずに苦しんでいます。いつかどなたかが解明していただけることを楽しみにしています。

医療や福祉関係者がほとんどの個人的なネットワークの狭い世界ですが、感染された方々を治療した経験があったり、介護している知人・友人が50名を超えました。それらの方々に「正確に記録を残して欲しいと」お願いしています。運悪くクラスターが発生した場合は、ホームページに発生情報を直ちに公表して、何より職員間の情報共有化と協力要請をします。不思議なことに、職員の多くは「きたか」という反応で、それぞれの業務に専念しています。

クラスター発生してから何を言ってもどうにもなりません。これまで準備したことを実施することです。クラスター発生を収束させるには多大の努力も協力も必要ですが、厄介なのは風説被害です。いつもは元気な職員が「子どもが学校でいじめられている」と話しているのを直視できません。とてもヤナ言い方ですが「人の不幸は蜜の味」的雰囲気が地域で醸成されてしまうと厄介極まりません。それゆえ、いつか汚名を晴らすためにも「記録」が必要なのです。

◎情報は受け手により変化し利己的な要求は正確でない

全ての評価は、パンデミック収束後に徹底的に解明されることを希望したい。大規模の火災中に「建物の耐火構造が不十分ではなかったか」「防火体制が十分ではなかった」「避難が遅れて被害者がでた」と強調しても、どうしようもない。確り検討を加え再発防止に努めることに集中する時期まで、記録を続けることが重要だと思う。少なくても責任の擦り付け合戦みたいなことは、醜いばかりか無意味だとしか思えない。

例は適切ではないが、突然、大臣が「中等症以下の人は自宅療養に切り替える」と言う趣旨の発言をする。これに対し各県の知事は「そういわれても国が明確な基準を示してくれないと対応できない」と発言する。そして、議論は炎上するが、なにかが改善されるわけでなく、医療や介護の現場の最前線の人は「いまさらなに言っているの」としか反応できない。

このような中央集権国家として全国統一的な基準を設定することを求める都道府県と「ヤッター感」だけにみえる政府の判断は、最悪、最大の危機下でも1%の可能性でも利他的に対応するという医療の本懐と、何が何でも「見捨てない」という福祉の心には、完全に妖怪のようにしか映らないことを為政者は知らないのだろう。

職業人として利他的に働いている人々の立場に立てといっても無理なら、せめて働いている人々に敬意を示し続けて欲しい。

社会医療ニュースVol.47 No.553 2021年8月15日