ドイツ連邦共和国統一記念30周年を祝う

1990年10月3日深夜、ベルリンの国会議事堂前に歓喜の声がこだまし、大きなウェーブとなり世界に輝いたのをみた。すぐそばにあるブランデンブルグ門を東西に分断するために積みあがっていた、不細工な石塊が人々の手で剝がされる。突然祖国が分断され、家族や親族は引き裂かれ、有形無形の文化は破壊しつくされ、社会主義独裁という恐怖の社会システムの渦中に叩き込まれた東側の人々と、悪夢を乗り越え美しい街並みをほぼ元通りに再建するため何十年もひたすら耐えた西側の国民を支えたのは「統一」の二文字だった。

歴史は残酷で過酷なものであるが、ひと時の光に満ち溢れることがあるのだということが、全身で理解できた瞬間が、あの日あの時だったのではないかと、今でも思う。30年前のテレビの画像が脳裏に焼き付けられ、かつての枢軸国ドイツという敗戦国の戦後の社会システムへの関心に引き付けられていった。きっかけは、ドイツの介護保険構想だ。

意外なことにドイツは家族介護が英国やフランスあるいはオランダなどより根強く行われており、障碍者や高齢者の介護対策が遅れていると指摘されていた。それゆえ、家族政策という観点でも介護問題に対する社会保障政策の充実が長年議論されてきた。特徴的なことは85年民間介護保険が商品化されたが、民間保険での介護問題の対応には限界があると認識され、90年9月に当時の西ドイツ連邦の労働社会大臣が公的介護保険構想を公表したが、意見の一致をみることはなかった。東西ドイツ統一に伴う多額の財政出動と、新たな介護対策の導入という政策課題を抱え込んだことになる。

90年12月の統一後の総選挙でキリスト教民主・社会同盟と自由民主党の連立与党が大勝した。この選挙で初めて立候補し当選したのがライピツィヒ大学で分析化学を専攻した物理学者アレラ・ドロルテ・メルケル、05年から首相を務めるその人だ。

紆余曲折はあったものの94年5月にドイツの「介護保険法」が公布され、95年元旦から施行された。この年、日本でも公的介護保険成立のための小さなプロジェクトチームが厚生省内に組織化された。そのころから、ドイツと介護保険にわたしは付き合うことになった。

メルケル首相は、ハンブルグで生まれ、父親が聖職者であったため青春を旧東ドイツで過ごすことになったようだが、彼女はドイツの統一問題に関心があり、敗戦国ドイツの復興とナチスの蛮行への贖罪感を途切れることなく持ちつづける世界のリーダーであることは間違いない。

しかし、メルケル首相は、欧州難民危機との戦いを余儀なくされた。15年8月31日、首相は「私たちはやり遂げる!」という掛け声ととともに、ドイツに大量の難民を受け入れることを表明したのだ。連邦移住難民局(BAMF)によると、同年11月末までに中東や北アフリカの国々から96万5000人の庇護申請者を受け付け、そのうち42万5035人が難民として認定されたという。あれから5年、難民問題は、ドイツを分断し、周辺各国は急激に移民排斥の急進右派政治集団が発言力を強めている。そして、メルケル首相の支持率は低下し、ついに来年の総選挙後に政界を引退する方針を明らかにした。

ドイツは今回のパンデミックで医療崩壊も死亡率の急増という状況に追い込まれなかったのは「ドイツのお母さん」首相のリーダーシップの功績と考える人々が、最近急増しているようだ。このように統一後のドイツでメルケル首相の功績は偉大だ。FIFAワールドカップのドイツ代表は、06年ドイツ開催で3位、10年には優勝したが、首相はその12番目の選手とも呼ばれている熱狂的ファンでもある。

ドイツ統一おめでとう!

社会医療ニュース Vol.46 No.543 2020年10月15日