倉敷の大原美術館

3月10日は「東京大空襲」の日。昭和20年のこの日、浅草を中心にした下町に対して深夜0時過ぎから焼夷弾による空襲が行われました。この日だけで死者10万人、罹災者は100万人を超え、史上最大の都市空襲としての大虐殺を東京人は忘れてはいけないと、幼い時から教え込まれてきました。3月11日の東日本大震災も決して忘れられない日です。この2日間は、鎮魂の日にしています。

大学生の時代、都市に対する絨毯爆撃という残虐行為の歴史に興味があり、本を読んだり記録を調べたりしていました。そんな時、水島の軍需工場地帯は徹底的に空襲されたのに倉敷市中心部は全く爆撃されなかったことを知りました。その時漠然とですが「受胎告知」が1931年に開設された大原美術館にあったからではないのかと、感じました。

少し込み入った話ですが、柳条湖事件を契機に満州国支配を画策する日本に対して国際連盟理事会が「国際連盟日支紛争調査会」を組織し、当時の日本と中国民国に英仏伊米独5か国で構成される調査団を派遣しました。調査団長が英国の外交官リットン伯爵であったことから、リットン調査団と命名され、日本政府は官民一体となり接待攻勢をかけます。調査委員はリットン卿、フランスの陸軍中将、イタリアの伯爵、米国の陸軍少将、それにドイツの国会議員です。このほか専門家やそれぞれの委員の随員を加えて35人が来日しました。この調査団一行が特別列車で岡山に到着し倉敷に宿泊したのが1932年3月3日から数日です。まず、何の関係もない倉敷をなぜ?訪問したのかということに関しては「調査団からのリクエスト」だったらしいのです。ただ、5人の委員のうちだれが大原美術館を訪問したのかとか、随員の何人が「受胎告知」の絵をみたのかという記録はないようです。

そんなこんなで、エル・グレコ作の絵と爆撃対象除外の話は、都市伝説らしいということで、かたづけられてしまっています。しかし米国側にも倉敷を空爆対象から外していたという明確な資料がないことだけを根拠とするのもどうかと思います。結局、憶測に過ぎない、ロマンなのでしょう。ただ、そうだったのではないかと思い込みたいこともありますよね。本気でこのテーマで小説を書きたいと、夢見た若造だったんだなー、と懐かしがってます。

エル・グレコは、1541年に、現在のギリシャ領クレタ島、イラクリオ県に生まれた画家です。本名はドミニコス・テオトコプロスといいますが、グレコはイタリア語で「ギリシャ人」を意味しますし、エルはスペイン語の男性名詞につく定冠詞ですから不思議ですね。この呼び名、当時はヴェネツィア領であったクレタ島のギリシャ人画家が、ヴェネツィアで修行してから、スペインに行き、仲間から「お~いギリシャ人」と呼ばれていたのか、それともイラクリオでの初めての師匠が「グレコ」という名前だったからなのか、よくわかりません。ただ、ローマのスペイン階段のそばにある有名な喫茶店「エル・グレコ」をはじめ、同名の喫茶店は世界中にあるようです。もちろん、大原美術館の隣にもありますよ。

それにしても、児島虎次郎画伯が、大原孫三郎社長からの資金でエル・グレコの「受胎告知」を手に入れ、日本に現存することは、とても誇らしいことだと思います。倉敷中央病院の相談役でもある相田俊夫先生(兵庫県立大学客員教授)からお聴きしたことですが「大原美術館は日本で唯一入館料のみで経営できている美術館なんだ」とのことです。

芸術も経営も人物も本物は凄過ぎますね。

社会医療ニュース Vol.47 No.548 2021年3月15日