さまよえるオランダ人の魂の救済
死して天国には行けない。かといって地獄にも落ちない。中間に「煉獄」があり神による苦罰によって罪を清められた人は天国に入れる。これがカトリックの教理です。大多数のプロテスタントは煉獄を信じませんが、こういった世界があることを知らないとロマン主義芸術文化がわかりにくいかもしれません。
北欧伝説の幽霊船そのオランダ人船長は、神の神聖を汚す言葉を吐いたため神罰により煉獄をさまよい「乙女の愛を受けなければ呪いは解かれず、死ぬことも許されずに永遠に海をさまよわなければならない」フライング・ダッチマンの物語として語り継がれました。ドイツの詩人ハインリヒ・ハイネが1834年に『フォン・シュナーベレヴォプスキー氏の回想記』という本で紹介し、リヒャルト・ワーグナーが着想をえて1843年1月2日にドレスデンで初演されたのが≪さまよえるオランダ人≫です。
ダーラント船長の船が、荒波を逃れ、港に停泊して上陸し嵐が過ぎるのを待っていると赤い帆を張った船が現れます。男がひとり降りてきて「呪われていて死ぬこともできず、海をさまよい7年に一度しか上陸することができない、そして永遠の貞節を誓う乙女だけが、呪いを解くことができる」と嘆きを歌います。
男は、自分はオランダ人で、長いこと船でさまよっていたと話し、宿の世話をしてほしいと船長に頼みます。お礼にと持ってきた箱の中には、たくさんの宝物。そして、船長の娘を妻にできれば、船にある財宝すべてを渡すと持ちかけます。
さまよえるオランダ人の伝説を知るダーラントの娘ゼンタは、自分こそがオランダ人を救済できる聖なる女性なのだと信じていました。そこへ、航海を終えた父ダーラントが見知らぬ男を連れて帰ってきたのです。ゼンタはオランダ人と運命によって引きつけられたことに感動しつつ、永遠の愛を誓うのです。
一方、彼女のことが好きな猟師のエリックは、オランダ人とゼンタが海に去ってしまう夢を見たと心配します。エリックはゼンタに「自分に愛を誓ったのに酷い」と責めますが、彼女は聴く耳を持ちません。しかし、その話をオランダ人が立ち聞きしていました。
オランダ人は、ゼンダが貞節を失ったと勘違いして、自分は「さまよえるオランダ人」だと身元をあかして海へ去っていきます。ゼンタは、オランダ人に対する真の愛を誓って海に身を投げてしまいます。すると、幽霊船は海に沈み、オランダ人とゼンタの体は、空から一条の光を浴びて、天に昇っていきます。ゼンタの死とともに、オランダ人は呪いから救済されたのです。
きわめて長い時間、神から与えられる罰を受けてさまよう男が乙女の無私の愛によって救済されるという観念をワグナーが常々抱いていたのだと書いている人が多いのですが、真意は不明です。当時26歳の彼はリガ(現在はバルト3国の最大都市でありラトビアの首都)の劇場指揮者を解雇され女優ミンナと夫婦であったものの多額の負債があったため借金取りに追い回され、どうにもならなくなっていた。そこでワグナー夫婦はロンドンにむけて密航の船旅にでるが、そこで嵐に遭遇した体験と乙女の救済そしてさまよえるオランダ人の伝説が相まって≪さまよえるオランダ人≫という傑作になったことは明らかです。
11分間の序曲が素晴らしい。荒れ狂うノルウェーの海、その中で「オランダ人の動機」と「ゼンダの救済の動機」が随所に現れながら物語が進みます。ノルウェーの水夫の合唱、娘たちの糸車をまわしながらの「糸紡ぎの歌」は、合唱好きにはたまりません。
社会医療ニュースVol.51 No.594 2025年1月15日