憧れのザルツブルク音楽祭

7月20日から43日間、リヒャルト・シュトラウスが103年前に「街全体が舞台と化す」との抱負を語ったとつたえられているザルツブルク音楽祭が開催されます。その昔、良質な塩を産出する塩坑があったオーストリアの田舎町が「アルプスの北のフィレンツェ」とか「小さなローマ」といわれるようになったのは、16世紀後半に大司教として教会国家の君主になってからです。

教会国家の長となった28歳のヴォルフ・ディートリヒ公は、さしずめ塩城の狼猊下(げいか)と呼ばれ25年間、宮殿や教会を建て、広場を移動させ噴水をいくつも造り、「建築によって後世に名をなすこと」に生涯情熱を傾けました。街はルネッサンスの影響を受けどことなくバチカン風で、イタリア語が宮廷内では準公用語として通じていたらしい。この街に南ドイツの自由都市アウグスブルクから留学してきたのがレオポルト・モーツァルトです。

1756年1月27日にヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがザルツブルクで産声をあげたのです。この瞬間から「モーツァルトの町」と世界中の人から呼ばれることになる幸運が訪れたのです。

1931年は、モーツァルトの生誕175周年で各種記念イベントが開催されましたが、不安定な経済や政治の状況で、この4年前のベートーヴェン没後百年際の規模には遠くおよばなかったと伝えられています。1938年ナチスドイツはオーストリアを併合します。この時期のナチスによる音楽の政治利用は、ベートーヴェンやワーグナーばかりかモーツァルトにもおよびます。その頂点は1941年12月4日のウィーン国立劇場でのナチスのゲッペルス宣伝相の演説です。

「ある民族の至高の名誉とは、偉大なる人物、重要なる意味を持つ人物を輩出しており、彼らの遺産を忠実に注意深く育み、しかるべき管理し、彼らの記念日には、名声と感謝を捧げるということであります」(E.リーヴィー、高橋信也訳『モーツァルトとナチス』白水社、2012、322頁)。

それにしてもモーツァルトの音楽とナチスのイメージは異質です。彼はドイツ人の父の子ではあるがオーストリア人で、『魔笛』はヒトラーが敵視したフリーメイソンの儀式を背景にしているし、おまけに台本作家であるダ・ポンテはユダヤ系イタリア人なのです。ナチスはダ・ポンテの名前を消し、『魔笛』の演出ではザラストを迎える場面で人々が右手を上げる仕草に変更したりしました。戦後再独立したオーストリア政府は、モーツァルトはオーストリア人でドイツ人ではなく、オーストリアはナチスから迫害を受けたことを強調したのです。

音楽と政治は、別のものだと信じたいのですが、プーチンのウクライナ戦争以降、ロシアの作曲家の曲が日本でも敬遠されている現実に直面して、改めて音楽の力は想像以上です。よくモーツァルトはコスモポリタンだといわれますが、ドイツ語とイタリア語のバイリンガルでヨーロッパ旅行に明け暮れた彼の音楽は、どこかの国を代表するものではありませんし、世界中の人々を楽しませてくれています。

ザルツブルクには3回訪れたことがありますが、ザルツブルク音楽祭には一度も行ったことがありません。今年は『フィガロの結婚』をはじめ15会場で合計179のプログラムが予定されています。マスクが外せるようになった今、多少無理をすれば訪問可能ですが、そのリストを見つめながら、ホテルとチケットの確保ができません。多分、世界中から人々が訪れ大盛況になるのではないでしょうか。

というわけで今年も憧れです。

社会医療ニュースVol.49 No.574 2023年5月15日